月報

1999年12月号HP掲載記事

「ありのままの自分」でのんびりと、のびのびと
ブームの中で熊野を考える
「球宴」という名の陶酔のうたげ
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「ありのままの自分」でのんびりと、のびのびと

山 野  真

月報 1999年4月号より

1、はじめに

 この子どもたちといっしょに過ごして多くのことを学びました。また、子どもたちといっしょに考え、悩 み、時にはしんどい思いをしながらも充実した、たのしい感動のある一年間を過ごすことができました。

2、学級づくりで大切にしていること

 今の子どもたちは、多かれ少なかれ「ムカツキ」を持って生活をしていると言われます。そして、子ども たちがなぜムカツクのか自分自身で分かっている場合もあれば、そうでない場合もあります。しかし、今の 子どもたちの生活にゆとりがなくなってきているのは事実だと思います。
 わたしが勤務している小学校は、田園風景も広がるのどかな環境にあり、子どもたちはゆったりと過ごし ています。しかし、塾や習いごとなどに通い、放課後の生活にゆとりのない子や友だちとうまく関われない 子、仲間外れにならないように自分をつくっている子、「ムカツク」を連発する子など、さまざまな子ども の姿が見られます。
 このような子どもたちを見ていていつも思うのは、「学校にきたときぐらいゆっくりとしてほしい」とい うことでした。そして、学校で子どもたちを追い立てるようなことはできる限りやめていきたいと考えまし た。そこで、学級の目標などは、特につくらずに「のんびりと、のびのびと」と書いて教室の前に貼りまし た。教室が子どもたちにとって、「がんばるところ」というよりもまず第一に「ゆっくりできるところ」に なってほしいとの願いからです。そのために、学級づくりをすすめるうえで、次のような点を大切にしてき ました。
(1) 子どもの要求を大切にして「子どもの権利条約」の精神に沿った学級づくりをすすめる。
(2) 子どもたちを評価の目だけで見るのではなく、共感の目で見る。
(3) 子どもたちを「なぐらない、怒鳴らない、よびすてしない」の実践。
(4) 「わかる授業」の工夫。
(5) 子どもの話をきちんと聞く。
(6) 子どもを「がんばれ!がんばれ!」だけで追い詰めず、ある程度幅を持って時には気長にとりくむ 。
(7) そうじをいっしょにする。
(8) 子どもにものを頼むときは「悪いけど○○してくれる」という言い方で頼む。
(9) 自分が悪かったときは、素直な気持ちで子どもに謝る。
(10) 教師の考えを押し付けずに、子どもたち自身の考えを大切にしていく。
(11) 子どもと教師が対等・平等の関係に。

3、子どもたちとの生活から

(1) 学級びらき
 わたしは、学級びらきの日に次の話をします。
 ◎言いたいことは何を言ってもいいし、したいことは何をしてもいい。自分の考えで行動して見よう。け れど、そのことで他の人に迷惑がかからないようにしよう。
 ◎先生は、「なぐらない、怒鳴らない、よびすてしないを約束します」昨年は、学級びらきの日にこのこ とを板書して、子どもたちの方を振り返ると、一人の男の子が自分の机の上に丸くなって寝転んでいました 。ちょっと、びっくりしましたが、「気持ちええか?」と聞くと、「うん、気持いいで」と答えてそのまま 転がっていました。十年も前の自分であればこんな時に「座りなさい!」と言ったかもしれません。でも、 だれにも迷惑がかからないことだし、今、その子はそんなにしていたいのだからそれを認めてもいいと思え るようになりました。しばらくすると、きちんと座っていました。
 そして、子どもたちに、「今のままのありのままの自分でいいんや」という話をしました。すると、びっ くりしたように「先生、ぼくはケンカばっかりしてるのにこのままでええんか」というA君。また、「いっ ぱい忘れ物してんのにそれでええんか」というB君。そこで、わたしは、「そしたら、そのことを自分たち はどんなに思ってるん?」と聞くと「いいと思ってない」と言い、「どうしたいと思う?」と言うと「なお さなあかんと思う」といいました。わたしは「そうやろ、だから今のままの自分でいいんや」といいました 。子どもたちは、「あっ、そうか」と言って納得したようでした。そして、「そんな素直な気持ちを持って いるみんなが大好きや。これから、一年間、いろんなことがあるかも知れないけれど、みんでのびのびでき る教室にしていこう」といって話を終わりました。
(2) とかげのトカちゃん
 学級が始まって一週間ほどたったある日、休憩時間が終わった後、男女合わせて十人ぐらいの子が遅れて 教室に戻ってきました。話を聞いてみると、片方の目をけがして弱っているとかげをティッシュペーパーに つつんで持って帰ってきました。そして、けがが治るまで教室で飼いたいといいます。学級のみんなに話し て全員が賛成し、このとかげを飼うことになりました。「とかげのトカちゃん」と名づけてこの日から学級 の一員となりました。しかし、残念なことに三日めには死んでいました。そして、「可愛そうだから、寄せ 書きを書いて埋めてあげよう」と子どもたちは言いました。わたしは、けがをした一匹のとかげのためにこ こまで真剣になれる子どもたちが素晴らしいと思いました。
 こんなやさしさを持った子どもたちなら、これから先、何があっでももう大丈夫だと思いました。
(3) 朝、宿題をする子ども
 ある朝、教室へいくと一人の子がいっしょうけんめい宿題をしていました。わたしは、「どうしたん、き のうできなかったん?」と聞くと、「塾が遅くなってしまったのでできなかった」といいました。そこで、 わたしは、「そんな時はしんどかったら宿題しなくてもいいよ」と言いました。「でも、それやったらみん なに悪いから……」という答えが返ってきました。
 わたしは、「宿題は、誰でも体の調子が悪いときはできないし、また時にはやりたくないときもあるかも しれないからそんな時はしなくてもいいよ。無理をするのはやめようね。ただし、そんな時は先生にはその ことを言ってほしい」といい、学級でも同じ話をしました。学校へきて休憩時間までしんどい思いをして過 ごすことはない、もっと、自由に、のびのびと自分のしたい事をしてほしいと思います。
(4) 「先生、ポケモンカード持ってきていい?」
 五月の半ば頃、「先生、ポケモンカード持ってきていい?」と聞く子がいました。わたしは、「持ってく る持ってこないは、自分で決めたらいいよ」といいました。すると、他の子どもたちもいっせいに「じゃあ 、持ってきてもいいん?」と言います。そんななかである子どもが「学校のきまりはどうなってるん?」と 聞きました。そこで、わたしは「学校では必要でないものは持ってこないというようになっています。だけ ど、ここで大切なのは必要かどうかを決めるのはみんな一人ひとりなんよ」と話しました。次の日、ポケモ ンカードを持ってきて遊ぶ子がいたり、ミニ四駆で遊ぶ子もいました。
 わたしは、学校に持ってくるもので必要かどうかを決めていくのは学校の主人公である子どもひとりひと りだと思います。子どもたちは、いろいろなものを持ってきて遊んでいましたが、しばらくすると、また、 もってこなくなりました。わたしは、この時、特にきまりを決めなくても、自分たちで考えて行動していく なかできちんとできていくような気がしました。逆に、「○○は持ってきてはいけない」というようなきま りをつくって追い詰めることによって、持ってきたくなるのではないかと考えました。
(5) 子どもたちの願い
 学級で「したいことは自由にしたらいい、言いたいことはなにを言ってもいい」と言ってきましたが、実 際には具体的な願いはなかなか言いませんでした。
 しかし、このポケモンカードをきっかけにして、いろいろな願いを出してきました。たとえば、教育委員 会の学校訪問で研究授業をする際に、曜日をふりかえて時間割を変更すると「先生たちの都合で時間割を勝 手に変えられたら習いごとに行けなくなるのでやめてほしい」という意見や「上履きで遊べる場所をもっと 広げてほしい」などの意見が出てきました。これらのことは、その都度、職員会議に出して話し合い、結果 も子どもたちに報告してきました。
 このようなことを子どもたちと話し合うなかで、わたし自身も学校のきまりについていろいろと考えるよ うになりました。たとえば、「始業式、終業式以外は、ランドセルで登校する」というきまりがありました 。わたしは、子どもがランドセルを背負って登校するのは一年生であっても六年生であってもそれなりに似 合っているような気がしてとっても好きです。だから、ランドセルで登校してほしいと思うこともあります が、それは教師の願いであって決めるのは子ども一人ひとりだと思いました。
 そこで、職員会議で話し合ってこの項目を削ることにしました。また、水泳の授業で着る水着も黒か紺と いうことになっていましたが、これも自由にしました。考えてみれば、「なぜ、いつもランドセルでなけれ ばいけないのか」「なぜ、水着は黒か紺でないといけないのか」ということがわかりません。学校のきまり のなかにはこのように「なぜ○○でなければいけないのか」ということを話し合わなければならないものが まだまだあるような気がします。
 一学期の雨が降り続いたある日のことです。日頃、体を動かすことが大好きな子どもたちがどうすること もできず、教室でこんなことを言いました。「先生、体育館は、休憩時間になぜ、使えやんのや。雨の日ぐ らい使ってもいいんとちがうんか」わたしは、「それやったら自分たちで使えるようにしたらいいんとちが うか」と言いました。そこで、この願いを実現するためのとりくみをすることになりました。はじめに、「 自分たちの力で願いを実現するためにはどうしたらいいのか考えよう」といって学級会で話し合いました。
 そのなかで、考えついたのが児童会へ意見をあげることでした。なかなか賛成が得られず、その度に学級 会を開いてどのように意見をまとめていくかを話し合いました。このようなことを二度、三度と繰り返して 約半年間をかけてこの願いを実現することができました。この間、保護者の方にも励まされながらとりくみ をすすめ、子どもたちを中心にみんなの力で実現できたという思いが強く、喜びもひとしおでした。このと りくみの中心となった学級委員二名はその後、児童会役員に、「学校をより楽しく、自由に!」という願い を持って立候補して見事当選し、現在活躍中です。

4、おわりに

 今の子どもは、自分がゆっくりとできる居場所を持っている子が少ないと言われます。だから、少なくと も自分の学級、学校がそんな居場所になればと考えています。そのためには、教師自身が子どもたちにゆっ たりと接することができるように心にゆとりのある状況をつくらなければいけないし、さらに、子どもや教 育のことがなんでも話し合える職場てなければならないと思います。わたしたちがゆとりを持ち、ありのま まの自分で接していくことによって子どもをまるごととらえられることが確認できた、そんな一年間でした 。
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ブームの中で熊野を考える

県立田辺商業高等学校 桑原康宏

月報 1999年4月号より

 今年は全国にも珍しいオープン型の博覧会である熊野体験博が、田辺市、那智勝浦町をメイン会場に二市 十二町二村の広域行政地域で、四月二九日から九月一九日の約半年間の予定で行なわれる。テレビや雑誌等 で取り上げられ、徐々にそのムードが高まりつつあり、会の賛成者、反対者に関わらず県民の大きな関心事 になっている。
 主催者はこのようにマスコミをとおしたブームづくりに懸命である。ブームがくれば、やがてそれが去る 。静かなブームは長続きするが、とくに作られたブームであればあるほどその引き際は鮮やかで、ブームが 去った後、剥出しになった赤茶けた自然とコンクリートの残骸とその破片、ゴミの山しか残らないようでは この企画が成功したといえない。「祭」後のことを十分考慮にいれて、企画運営してもらいたい。
 何と言っても熊野の魅力は、海と陸との境の妙、流水とその岸辺、滝とそれを取り巻く背景の美しさ、折 り重なった山々といった自然そのものの雄大な姿、景観である。しかし、だからといって「隠国」や「縄文 文化の残る国」、「死国」といった特別な「異国」で語られる地ではない。ごく平凡でどこにでもある山野 とその領域であり、日本中どこにでもみられるごく普通の人間が、そこに居住しているに過ぎない。
 今は亡き中上健次氏らと「熊野学」創設に貢献した梅原猛氏は『日本の原郷熊野』で「熊野に稲作農業の 恩恵が入ったのは徳川の末になってからである」と述べているが、このような興味本位な見方では熊野の本 質は見えてこない。氏の文からは熊野には文化的に何世紀も遅れた奇異な人間が住んでいるような印象を与 える。また熊野に、縄文文化が根強く残っている等の記述もあるが、江戸期の他地域の山間部を調べた上で の結論であるのだろうか。木の実・草の葉を食べる人は縄文文化を引き継いでいるとどうして断言できるの だろうか。高名な学者先生が事実をきちんと調査せず喧伝しているとすれば、ダイオキシンのような害毒を 世に流布しつづけているといっても過言ではあるまい。

 熊野の自然は、他の地域と同じように人々が働き掛け、鉄やコンクリートで固められているところも少な くない。しかし、熊野の自然改変の割合が他地方より比較的少なかったので、まだかなり自然の緑と岩肌が 残されている。これが熊野の特徴であるといえばそうかも知れない。しかし、熊野の地の自然は、特別な地 、聖なる地であるからとして保護され、意図的に自然を残そうと努力された結果でなく、高度経済成長時に 積極的な投資の益に与らなかっただけのことで、開発からとり残された後進地にほかならない。換言すれば 、後進地であったがゆえに結果として、大規模な自然改変から免れ、自然が多く残されたのである。これが 都会の人々の「郷愁」として心を打つのだろう。
 熊野は聖域で、宗教的な地であるといわれているが、このような地は他にもたくさんある。奈良の三輪神 社、長野の諏訪神社等は神殿がなく山そのものが聖域で信仰の対象であり、また山伏の修験道場の霊峰英彦 山、大峰山、出羽三山なども聖域として崇められている。しかし、これらの地は、熊野ほど広域ではないし 、その聖域への立入禁止・制限をするなどの閉鎖性を持っている。

 熊野体験博の最大の売物は、何といっても自然である。あまり人工的に加工されていない緑豊かな熊野の 地こそが、現在に生きている人たちの求めている「やすらぎ」と「心の救済」の場として提供できるところ と考えられているからである。経済優先でひた走っていた二〇世紀後半、経済成長も止まり、人々もようや く減速し、周囲を見渡せるようになると、心のなかに物や金で解決できない何かかがあると気付くようにな ってきた。それは、社会的病理として現われた現象に対する問題の深さと速効的解決策のなさから感じてい るのかも知れない。それらの「癒し」の場として、古来から認知されていた熊野に身を置くことによって心 身ともに「再生」されると信じられている。
 自然と対決したり自然を改変することにより栄えた西洋文明に汚染された日本の現在社会の病理は、自然 と一体になることによってのみ、解消されるのではないかということに気付いたからであろう。
 熊野は自然が豊だとはいえ、熊野御幸時代の自然景観を求め、当時の風景を楽しみ、法皇らの行動の追体 験することは残念ながらできない。それは山野のほとんどは立派な針葉樹の人工林にとってかわっているか らである。先人の追体験をするというより、主体的な自分のために熊野を歩き、熊野の魅力・宗教性を肌で 感じ、熊野を楽しんでもらいたい。
 では、熊野の魅力とは何だろうか。それは満腹後のフランス料理フルコースと長い空腹後の一杯のお粥と ではどちらが美味いと感じるか、という問いに似ている。わたしは熊野の魅力は後者から来る喜びではない かと考えている。
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「球宴」という名の陶酔のうたげ

和教組本部 植村美穂子

月報 1999年4月号より

 入場券を係員に切ってもらって階段を登り、小高いマウンドが見える位置に立つと、広々としたグラウン ドが眼前に一望されます。それだけでため息をついてしまい、うっとりとします。あの独特の空気の香りは 何回味わってもゾクゾクします。これからくり広げられる球宴を控えてピンとした緊張感が漲ります。
 最初衣笠祥夫という個人のファンだったのが、広島カープというチームそのものまで応援するようになっ てしまったという経過があります。しかし、一昨年は三位、昨年は五位とふるわず元気をもらえずにいます 。特に昨年は「手負いの鯉」という感じでケガ人続出で、心配のあまり広島球場の事務局宛で、激励の手紙 を送りました。一昨年は、原水禁世界大会で長崎へ行ってそのあと新宮には帰らず広島に行き、昨年引退し た大野豊選手の右足の不滅のバネを生で見て涙が出そうになりました。自分よりたった五歳若い人が大観衆 の前で投げ続ける姿には「体調の維持」の手本を見せられる思いでした。昨年は原水禁世界大会のあと、一 人で広島市に残りナイター観戦をしてひんしゅくを買いました。
 ナイター観戦はやっぱりドームでなく露天の方がムードがもり上がります。ナゴヤ球場では三塁側、広島 市民球場では一塁側と、どちらも西日がギラギラ照りつける中、開始二時間前ぐらいから座り練習風景から 見ているのです。開始までにすでに汗びっしょりです。席はやはり外野席がいいです。
 ナゴヤ球場(今のドームではありません)では圧倒的に青い色が多い中で赤いメガホンを降るのは大変勇 気がいりますが、逆に他の人との団結心が高揚するように思います。ホームランが出れば全く見ず知らずの 人と握手を交わします。
 カープには独特の応援パターンがあるのですが、これがまたダイエットに効きそうな気がします。髪を染 めてガクランを着た若者が組合旗よりもデカイ旗を振り、ホイッスルを吹いている隣でメガホンを振り、立 ったり座ったりとなかなか忙しいのです。試合が終わるとヘトヘトです。アルコールがふだん全くダメな私 でも、冷えたビールはさすがに外野席では(おいしい!)と思います。
 四年前だったかO157の食中毒の被害が全国的に広がったとき、ナイター観戦に行く道みち、今年はき っと球場内で食品の販売も規制があるだろうと思いながら行ったのですが、そんな事は全く問題ありません でした。外野席で応援する人間にとっておなかの中へいれるものを心配することなんか問題ではないという のがよく分かりました。
 スタンドで気勢を上げる人々間を回って様々な物を売るあの職業はいいなあと本気で考えた時もありまし た。
 さて!今年のカープですが、最年少の監督のもとスパルタ式のキャンプを終えてシーズンに突入しました が、一位のドラゴンズに六ゲームほど離されています。赤ヘル軍団の健闘を祈って今年もできれば生で出会 いたいと願っています。
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